K・Kニュース vol.13(2008年2月号)


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キャンプ
報告 I

第29回太陽の子サマーキャンプ

国立病院機構東佐賀病院 小児科・アレルギー科医長 久田 直樹
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 小学生の喘息児童を対象に平成19年8月7日〜8月11日の4泊5日間を長崎県諌早市白木峰町にある国立青少年自然の家で行った。

 参加者は男16人、女5人の計21人(小学1−2年が4人、3−4年が8人、5−6年が9人)であり、近年喘息のコントロールが良好となったためか年々参加者は減少している。予想以上の少人数なので、子ども1人に対しスタッフが2人という勘定になった。
最近、子どもに関わる事故のニュースをよく耳にしていたので、スタッフの誰かが見ているだろうということがないよう行事のたびに毎回、神経質になるくらい人数のチェックを行った。

 キャンプの行事で子ども達に強行軍となる沢歩きは、けがや熱中症の危険があるためしばらく中断していたが、今年はスタッフが多いこともあって思い切って復活させた。
発作をおこした後で元気のなかった子どもも、仲間に入れず落ち込んでいた子どもも、沢歩きの中で五感への心地よい刺激で満足したのか、中食が済んでの水遊びに目がキラキラと輝き、川に飛び込んで水が濁ってもおかまいなしに泳ぎ、スタッフと一緒になって喚声をあげていた。
しかし帰りは疲れはててしまい、半数以上は車での帰還となった。以前と比べて子ども達の体力、気力のなさを痛感した。

 喘息のコントロールが良好となったのは長期管理薬が充実してきたことによるが、今回のキャンプでは吸入ステロイドが21人中13人の61.9%に使用されていた。吸入ステロイドの併用薬として最も多かったのがロイコトリエン受容体拮抗薬で12人に、また長時間作用性の吸入β2刺激剤が3人にそれぞれ併用されており、テオフィリン徐放製剤までフルに処方されていたのは2人いた。
またテオフィリン徐放製剤は21人中12名の57.1%に処方されていた。このように薬物により管理が充分にされていたが、このキャンプで3人に治療の見直しが必要と考えられ、それぞれホームドクターへ診療情報の提供を行った。

 1人目は、吸入ステロイド薬+ロイコトリエン受容体拮抗薬+テオフィリン徐放製剤のステップ3であるが、キャンプ中の活動で運動誘発喘息があり、スパイロメトリーで末梢気道閉塞を認め、問診表からも月1〜2回の発作があるので治療不足と判断した。
2人目は吸入ステロイド+テオフィリン徐放製剤のステップ3であるが、キャンプ3日目の朝のピークフローが低値で夕方には発作となり、気管支拡張剤の吸入を行った。以後ラ音が持続するので吸入ステロイドとテオフィリン徐放製剤の増量、およびβ2刺激薬の定時吸入を行った。この例はキャンプ参加前の説明会日でも末梢気道閉塞が認められていた。
3人目はステップ1の治療であったが、アレルギー性鼻炎がありステロイド点鼻薬が処方されていたが、あまりしていなかったようだ。キャンプ初日より鼻炎症状があり鼻出血を反復していたし、鼻閉も強かった。ラ音はなかったが抹消気道閉塞を認めた。発作薬として持参していたロイコトリエン受容体拮抗薬とテオフィリン徐放製剤、ステロイド点鼻をキャンプ2日目より開始して抹消気道閉塞が消失し夜間睡眠が良好となってQOLが改善した。
またスパイロメトリーの経過を追っていくと数値が段々と上昇していく例があった。慣れのためかも知れないが、鎮咳去痰剤2種類で分3、テオフィリン徐放製剤の剤型2つで分2、ロイコトリエン受容体拮抗薬が分1の計1日11錠と錠数が多く、また分1から分3と飲み分けるのが面倒と思われるが、キャンプ中はグループの仲間と一緒に確実に服薬するので肺機能が改善したとも考えられる。問診表でも飲み忘れありとのことで、服薬が煩雑なため怠薬が多くなった可能性もある。これも情報提供をする必要があった。
また昨年のキャンプで治療不足と判断し情報提供を行ったが、今年は問診表で発作なく、キャンプ中でも良好に経過した子どもがいた。今回は小学6年生になり最後のキャンプとなるので参加したとのこと、これを聞くと喘息児キャンプ冥利につきる訳である。

 聞くところによると各地で行われている喘息児キャンプも参加者が少なく運営が困難となっているとのこと。しかしまだまだキャンプの効用は多いので、今後は低予算で参加できるシステムを考えなければならない。


キャンプ
報告 II

第37回サマーキャンプを振り返って

国立病院機構福岡病院 小児科病棟 赤穂 理恵
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 平成19年7月31日から8月3日まで福岡市立油山青年の家で第37回喘息児サマーキャンプを行いました。参加児童は当初70名の予定でしたが、体調不良などもあり、残念ながら69名での出発となりました。
しかし、熱があるにも関わらず、キャンプに参加したいという思いで途中参加してくれた児童もおり、皆で解散式を迎えることが出来ました。ボランティアは32名、スタッフ22名と総数120名でのキャンプとなりました。

 今年から、キャンプ委員会を立ち上げ、毎月キャンプ委員会を実施し、早め早めに準備を進めてきました。今年から管理課からの参加もあり、事務系の仕事はスムーズに運ぶことが出来ました。また、心療内科の医師にも参加してもらい、子ども達の心理面に介入出来るようになりました。
今年は院内スタッフの人数が例年より少なかったのですが、院外からの強力なボランティアスタッフの参加が多数ありました。
医療班には成育医療センター小児科医、同センター臨床心理士にも参加してもらい、心理面においての臨床心理士からの見解やアドバイスを聞くことができ、大変貴重な経験をすることができました。
その他にも医療班には院外看謹師3名の参加もありました。
レクレーション班では福岡大学スポーツ科学部の大学院生4名に参加してもらい、新たなレクレーションの発掘がありました。福大生が考えた宝探しでは、知力・体力・希望・勇気・結束というテーマを元に課題解決を通して「やればできる」という自己達成感の形成、『生きる力』の養成を目的としていました。
様々な分野の方々のボランティアの協力のおかげで、キャンプ運営や子ども達を多角的にとらえることが出来たと思います。

 毎年医療班では子どもたちの喘息の管理について様々なことに取り組んできましたが、今年は新たに喘息日誌に自分で吸入・内服など出来たらシールを貼るということで、より主体的な行動をしていることを子どもたち自身に認識してもらうような関わりをしました。
レクレーションでは台風のためキャンプファイヤーがキャンドルファイャーになったのですが、子ども達ひとりひとりがろうそくを持ち、静かで、厳粛な雰囲気に包まれた夜になりました。
運動誘発喘息の検査では福大スポーツ科学部の協力があり、心拍数を測定する器械を利用し、以前に比べより正確な検査を行うこともできました。
このように、今年は院内の枠・小児科の枠を超えたサマーキャンプとなりました。

 喘息児サマーキャンプでは主に、教育的効果・体験的効果・医学研究的効果を目的として実施しています。
教育的効果とは鍛錬を通して体力をつける方法を学んだり、発作時の具体的対処法を喘息講話や、班員もしくは自分の発作を通して学んだり、また、日常生活では母親の管理の下に内服・吸入をしていますが、このことをキャンプ中は自己管理できるように働きかけ、日常生活の習慣づけを学んだりすることを指します。

 私は、初めてサマーキャンプに参加した時、こんなに小さいのに喘息児は内服や吸入や日誌記入と毎日することが多いのに驚きました。また、上にも述べたようにキャンプの内容はレクレーションもありますが、鍛錬や喘息の勉強などで全てが楽しいことばかりではありません。それでも参加する子どもたちは「楽しかった。」と口を揃えて言います。

 小学5年生の男の子は、はじめはサマーキャンプに参加するのを嫌と言っていたのですが、主治医の勧めで今年初参加となりました。屋形原特別支援学校への登校経験もあり、ほとんど集団生活の経験がない子でしたが、キャンプ中は班員と仲良く頑張っていました。体力的にもサマーキャンプの内容はきついはずなのに、全てのレクレーションに参加出来ました。
サマーキャンプが終わり、体調を崩して小児科病棟に入院することになったのですが、体調が優れないのにも関わらず「キャンプ楽しかった。来年も絶対行く!なんで今まで行かんかったっちゃろう。なんで知らんかつたとかいな。悔しい〃」と私に話してくれました。

 今年はサブリーダーで、ほとんど子どもたちと関われないが責任は重い、といった役どころで、行く前まではキャンプは今年までかななんて考えていましたが、終わってみるとそういった言葉や子どもたちの笑顔に感動し、また来年もキャンプに参加したいと思ってしまいました。

 このサマーキャンプが運営できるのも、県、市の教育委員会、報道機関はじめ各分野の皆様のご協力のおかげです。これからも精一杯取り組んでいきたいと思いますので、今後もご支援の程よろしくお願い申し上げます。


ローカル
ニュース

−鹿児島編−

激動の幕末を生き抜いた天璋院篤姫
 −その四十七年の生涯とは−

鹿児島大学生涯学習教育研究センター 法文学部教授・センター長 原口 泉
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 平成20年、放送がはじまったNHK大河ドラマは、薩摩藩の島津家から徳川13代将軍家定の正室、御台所となった天璋院篤姫の波乱に満ちた人生を描くドラマです。

 今まで男たちの幕末ドラマは数多く作られましたが、その陰で実は女性もまた、激しく苦悩しながら必死で戦っていました。篤姫の物語は、そうした正史の裏面を語ろうとするドラマです。

 時代は、折しも幕末の動乱期。本土最南端の薩摩の地で、桜島の噴煙を見ながら錦江湾で遊ぶ純朴で活発な一少女が、いきなり将軍の正室になり、俗に三千人の女性がいるという大奥を束ねるという、ただならぬ人生を歩み始めるのです。しかも藩主島津斉彬からは、将軍の世継ぎについての密命を帯びていました。
しかしこの世継ぎ問題が思うにまかせないまま、たった一年半で夫に死なれ、密命と違う後継将軍家茂に嫁いできた孝明天皇の妹、和宮との嫁姑問題で悩みながら、実家の薩摩藩の軍に攻められる徳川家を守ろうとしました。

 その間、やはり自分の身分である天皇家と敵対することになってしまった和宮との関係も対立から協調へと変化し、共通の敵となってしまったかつての身内(薩軍と官軍)に対して、二人とも必死に徳川家を守ろうとするのです。
その結果、江戸城の無血開城に成功し、和宮はいったん京都へ帰りますが、五年後には東京に戻ります。

 その和宮とやっと和やかな日々を送れるようになった篤姫は、ついに一度も薩摩にかえることなく、生き延びた徳川家の血筋を守って、後継者を立派に育てることに余生を捧げたのです。

 篤姫とはいったい何をした人なのかと簡単にいえば、将軍の世継ぎ問題と、江戸城の無血開城、そして徳川家の血筋を守り、後継者を育てたことです。
それにしても、なぜ、今篤姫なのでしょうか。

 これまでの大河ドラマの主役は、信長・秀吉・家康3大スターをはじめ超有名人があまたいる中で、篤姫はどうみてもマイナーな存在です。篤姫が話題として出てきても、江戸城で孤立するかわいそうな皇女・和宮をいじめた意地悪な姑、というイメージであって、大衆人気とは程遠い存在でした。

 製作発表のとき、脚本担当の田淵さんはこう書いています。
−この国が混乱を極めていた時代に、最後まで「誇り」と「覚悟」を失わなかった女性、・篤姫。愛する故郷である薩摩が、そして皮肉にも婚礼の仕度役だった西郷が刃を向けてきたとき、実家よりも婚家を守り通そうとしたその姿勢に、日本人が失ってしまった、そして、今の日本人になによりも必要な「何か」が秘められているのではないか−。

 私も歴史家として、時代考証に関わるうちに、私自身の中にあった問題意識が、現代という時代の中でさらにはっきりしてくるのを感じました。

 大河ドラマの『利家とまつ』や『功名が辻』の場合も、前田利家とまつ、山内一豊と千代という若い二人がそれぞれ、前田家、山内家という「家」を新たに立ち上げていく物語でした。
それに比べて、今回の舞台設定は大きく異なります。なにしろ、徳川家という天皇家に次ぐ家柄で、歴史の長さでも、組織の完成度の点でも、規模の大きさでも桁違いの、いわば究極のでき上がった「家」が舞台になっているのです。

 ここまで完成された「家」に、次に求められるのは何でしょうか。
完成されたものがたどる運命は一つは衰退と崩壊です。ですから、それに関わる人間に求められるのは、その状況からいかに「家」を守るかということになるでしょう。
その「守り」の中心になるのは当然、その「家」の当主、徳川家でいえば将軍でなくてはならないのは明白ですが、幕末期における徳川家の実態を見ると、将軍は非力であり、その補佐役の男たちもあまり頼りになりません。開国を迫る外国の圧力と、倒幕勢力の拡大の中で、右往左往しているだけのようにも思われます。

 官軍の攻撃で江戸中が火の海になる寸前、官軍の前線司令官である西郷隆盛に送った篤姫の嘆願書には、「私事一命にかけ」という言葉が見られます。
戦火迫る中で、私の一命を投げ打っても徳川家を存続させてほしいと、千三百字にも及ぶ手紙を書いているのです。ただわが身かわいさに、助命やお家存続を願ったのなら、「私の命に代えても」とは言わないでしょう。

 子どもも生まれなかったのだから、さっさと実家のある薩摩に帰っていたら、官軍方の将来性ある要人と結ばれ、女として母として大輪の花を咲かせたかもしれません。
そうした女の幸せを棒に振って、滅び行く徳川家の最後の守りを果たした篤姫の生き方には、何か人間として見過ごすことのできない大切なものが秘められているような気がします。

 それから、古来、犬猿の仲ととらえられることが多かった、嫁と姑の関係を考えてみましょう。特に戦後の家庭では、嫁と姑はできるだけ同居しないほうがいい、長男の嫁になるなら、なんと「ババア抜き」が条件、などと言われてきました。
しかし二〇〇七年度放送のNHK・朝の連続ドラマ小説『どんど晴れ』でも、老舗旅館のもてなしの心をずっと受け継いできたのは、大女将、女将、若女将という、三代にわたる嫁姑関係でした。
フィクションとはいえ、こうしたドラマが共感を呼ぶのは、古い時代の遺物でしかないと思われていた嫁と姑の関係を、見直してみようという動きができてきたからではないでしょうか。

 その意味でもっと大きな問題、つまり俗世的な嫁姑問題の側面も持ちながらも、単なる対立関係を超え、歴史を動かすほどの大きな問題を孕んでいるのが、篤姫の物語であり、彼女と和宮の生き方だと思います。

 世継ぎこそ産めなかったけれど、江戸城の大奥、三千人の女のトップであっただけでなく、徳川三百年の歴史を背負い、日本中の女性の頂点に立った一人の女として、女の人生を人の何倍もの濃さで精一杯生きた、まさに「女ならでは」の底力がそこにはあったのではないかと思います。


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