K・Kニュース vol.4(2003年6月号)


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200字コメント

(今回も、多数の方からコメントを頂きました!)

○在院日数

 在院日数を短くする運動によって、患者さんの長期フォローが困難になった。大学病院では、終末期まで患者さんを診ることが困難になってきた。したがって剖検数も減少してきた。また在院日数を短くすると、病床稼働率も減少した。ということは患者さんの総数が定常状態に達していることを意味する。医療界全体が費用対効果を求めるようになると、どうしても手のかかる患者さんが、そこから締め出される。公的病院こそが、そういう経済効果の枠外で、不採算部門を担う必要があると考える。大学病院(逆)特区を提唱したい。

(藤原 作平)


○今年も・・・

 今年も長崎大学新入生のアトピー性皮膚炎検診を行う季節となった。吉田彦太郎名誉教授の時代に開始され、班は竹中講師が中心になって行われている。この10年位のデータでは有病率8%前後で推移し、女子学生の方が毎年1〜2%高い。また4年生検診では軽快群の中に治療を受けていない学生が多く見られる点や、カーペット使用に改善例が多いなど、従来の常識に反するようなデータが集積されつつあり興味深い。今年からは阿南先生らと長与町でのアトピー検診を開始する予定で、年令別のアトピー疾患の有病率の変化を検討したいと考えている。

(片山 一朗)


○研究と平和

 医学研究・アレルギー研究の歴史から多くのものが学べる。この半世紀の間に、IgE の発見、炎症細胞・免疫担当細胞の発生分化と多彩な機能分担解明など飛躍的に研究が発展している。研究の発展には無限の思考と努力が必要だが、忘れてはならないものに平和があると思う。研究には人材・施設・資金が必須であり社会的な余裕がなければ研究環境が得られにくいからである。イラク戦争後の復興がうまく展開することを祈るが、戦争回避の研究もすることにより、地球の生命に貢献できる研究環境が世界的に展開することを望む。

(興梠 博次)

 

○アレルギー疾患

 アレルギー疾患の病態の理解や治療は進歩し、アレルギー疾患はコントロールされてきている。しかし、乳幼児期のアレルギー疾患の発症は日本では増加してきてる。色々な原因が考えられるが、乳幼児期の細菌感染の減少が一つあげられている。抗生物質の使用量とアレルギーの発症頻度は相関している。また、腸内細菌がいない無菌状態や嫌気性菌が多い状態ではアレルギーになりやすい。養殖や家畜の飼料に多くの抗生物質が含まれているが、アレルギーの増加との関連について検討する必要がある。

(久保 千春)


○平成16年度

平成16年度から研修制度がスーパーローテーションになる。多くの病院でそのカリキュラムが出来上がっている頃だと思う。我々の病院ではそれに連動して医学部学生の臨床実習も新しいカリキュラムに変更する。病棟実習の学生、研修医、主治医および指導医からなる医療チームによる診療、即ち教育といったスタイルに変わってくることが予想される。不安もあるが、卒前・卒後の医学教育が大きく変わる予兆を感じている。

(濱崎 雄平)


○アレルギーと食生活

 プロバイオティクスという用語を最近よく耳にする。アンティバイオティクスの反対語で、乳酸菌などの投与によって腸内細菌叢のバランスを正常化しアレルギー疾患を予防する試みである。ファーストフードに対してスローフードなるものも、スローライフと共に注目されている。アレルギー疾患が急増したこの20〜30年で最も大きく変化したものと言えば食生活であり、これを見直すことが今もっとも重要なことなのなもしれない。

(黒野 祐一)


○天国への携帯電話

 携帯電話は本当に便利だというタクシー運転手さんの言葉に、他界した母のことを考えながら、天国と繋がるともっといいと答えた。もしそうだったら私なんか毎日かけますよという運ちゃんに、誰にかけたいのと聞くと、2歳の女のお子さんを喘息で亡くしたという。さっきまでご飯を食べてたと思ったら、もう冷たくなってたんだよねと言う。彼は子を思い、私は母を思いながらだまりこくった。

(古江 増隆)

 

○連日のように・・・

 連日のように医療事故や医療裁判の話題が新聞に載る。大抵は大学病院や公立の大病院といった高度・高次医療を担う医療機関での、重症救急疾患や難治性疾患、大手術に関するものである。いずれも開業医や民間病院から紹介されてくる患者である。最初からリスクの高い診療を要求されているのであるから当然で、このような患者を扱わない診療所や病院では起こり得ないのである。大学病院でこんなことが起こるなんて…とあるコメンテーター。大学病院だから起こりうるのだ。何故このようなコメントになるのか理解し難い。

(鈴木 正志)


○アレルギー疾患

 アレルギー疾患が増えていると言われるが、確かに昔よりも多いと感じる。環境がきれいになり過ぎたためだとする説もあるが、それはさておき、ここではサイトカインに少し触れたい。T型アレルギーは Th1 に比べ、Th2 サイトカインが非常に優位に働いているとされている。多少経験的になるが、Th1 優位のリウマチは、アレルギーが活発な時や同様に Th2 優位と言われる妊娠中には、一見よくなるのをしばしば感ずる。このサイトカインの操作によってアレルギーを克服しようとする研究も始められているが、その成果を楽しみに待ちたい。

(長澤 浩平)


○遠路はるばるの受診に思う

 以前からアレルギーの専門医または名医を求めて遠隔地から数多くの患者が受診し、長時間の診療を強いられる時代が続いてきた。しかし喘息に関して言えばガイドラインの普及やステロイド吸入の進歩によって、最近はその度合いが少し減少しつつあることが感じられる。それでも処方箋の内容だけではない何かを期待してか、時間と費用をかけても専門家に受診を希望する患者さんが何割かは残っているのも事実である。地元に紹介しても、またすぐ戻ってくる患者をどう指導したらよいか、このあたりが医療の難しい問題である。

(江頭 洋祐)


飯倉洋治先生を偲んで

(財)日本アレルギー協会 九州支部長 西間 三馨
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 飯倉先生が逝った。

 あまりに早い逝去であった。彼のことだから、少々の重病でも病気の方が退散してくれるのではないかと思っていたが、さすがの彼も進行した胃癌には勝てなかった。しかし、今でも「よう、西間(彼は私より2学年上なので、ずっと私は呼び捨てにされていた)、何やってんだよ、お前!」と肩を突然叩かれる様な気がする。
 いまだもって、色々な場面で「何か足りないなあ、そうだ、彼がいないからだ」と感じ、彼の存在の大きさをつくづくを実感するこの頃である。

 私達の初めての出会いは、昭和45年頃に東大赤們そばの1軒家の2階の汚い畳部屋であった。ときあたかも青医連運動(今の若い人は、あまり知らないだろうが、青年医師連合という全国組織がインターン廃止、医局民主化を要求して活動していた。今は、"大学紛争"の一言で片付けられるが、当時の我々青年医師、医学生は改革に燃えていた。
 社会全部が60年安保、70年安保と何かとつけ燃えさかっていた)の真っ直中で、全国の大学から小児科青医連の代表が集まり侃々諤々の論争をやった。その席上で、私(九大)は飯倉さん(慈恵医大)に「私学は軟弱だ。今、一緒に行動すべきだ。そうでなければ医局は改革されない。ストライキを打て! 封鎖しろ!」と迫った(というか言ったようだ。後々ずっと、彼から「お前は激しかったよな、のっけから俺を問い詰めたもんな」と言われたことろをみると)らしい。

 その後数年して、小児アレルギー研究会(のちの日本小児アレルギー学会)でよく会うようになり、「ああ、あの東大赤門のときの…」となり、以後、公私にわたり親交が続いた。喘息児における運動、運動誘発喘息のメカニズム、水泳療法、経口抗アレルギー薬の喘息発症予防効果など一緒に企画して研究した。
 「東の飯倉、西の西間」と小児アレルギーにおける若手の遺り手として、持て囃された一時期を迎えたのであるが、実によく遊びもした。なぜか、写真を整理したら、国際アレルギー学会のイスラエルで二人で「銀座の恋の物語」をスカーフを被ってデュエットしていたのや、北京で東大の小林登先生、京大の三河先生達と麻雀をしているのや、千葉大の冨岡先生と芸者の横でニヤけている写真とか、ゾロゾロ出てくる。彼は仕事もそうであるが、遊びでも実にまめ。その積極性は私の遠く及ぶところではない。国内であろうと国外であろうと同じ。おかげで、随分余禄に与った。当然のこととして人脈の広さも抜群で、私がどちらかというと敬遠した行政関係も深く入っていた。診療科の壁もものともしなかった。元来、小児科医は優しくて、反発的態度はとらず遠慮がちである(と思う、思われる)が、彼はガンガン言い過ぎな位言った。そのために多くの敵も作ったと思われるが、私達の代弁者でもあった。

 とにかく、八面六臂、東奔西走の毎日であったから、病気の発見や処置が遅れたことは想像に難くない。

 私達の関係は6年前の日本小児アレルギー学会の役員選挙を境に疎遠になったが、いつも気になる存在であった。お互い、自分の研究班ではそれぞれの部下がいて情報は入っていたが、今から思えば早く手打ちをしておけばよかったと後悔している。

 とにもかくにも、私とプライベートには密着し、オフィシャルには喧嘩ばかりしていた飯倉先生は、私のアレルギーの臨床・研究・教育に大きな部分を占めていたことを亡くなられた今、つくづくと感じる。

 あの世では多分、仕事はしないだろうから同じ頃に死んで、徹底して二人で周りを一杯巻き込んで遊び惚けたかったものだ。

 心より飯倉先生の御冥福を祈ります。


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