K・Kニュース vol.4(2003年6月号)
〜Page5〜
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(今回も、多数の方からコメントを頂きました!) |
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飯倉洋治先生を偲んで (財)日本アレルギー協会 九州支部長 西間 三馨
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飯倉先生が逝った。
あまりに早い逝去であった。彼のことだから、少々の重病でも病気の方が退散してくれるのではないかと思っていたが、さすがの彼も進行した胃癌には勝てなかった。しかし、今でも「よう、西間(彼は私より2学年上なので、ずっと私は呼び捨てにされていた)、何やってんだよ、お前!」と肩を突然叩かれる様な気がする。
いまだもって、色々な場面で「何か足りないなあ、そうだ、彼がいないからだ」と感じ、彼の存在の大きさをつくづくを実感するこの頃である。私達の初めての出会いは、昭和45年頃に東大赤們そばの1軒家の2階の汚い畳部屋であった。ときあたかも青医連運動(今の若い人は、あまり知らないだろうが、青年医師連合という全国組織がインターン廃止、医局民主化を要求して活動していた。今は、"大学紛争"の一言で片付けられるが、当時の我々青年医師、医学生は改革に燃えていた。
社会全部が60年安保、70年安保と何かとつけ燃えさかっていた)の真っ直中で、全国の大学から小児科青医連の代表が集まり侃々諤々の論争をやった。その席上で、私(九大)は飯倉さん(慈恵医大)に「私学は軟弱だ。今、一緒に行動すべきだ。そうでなければ医局は改革されない。ストライキを打て! 封鎖しろ!」と迫った(というか言ったようだ。後々ずっと、彼から「お前は激しかったよな、のっけから俺を問い詰めたもんな」と言われたことろをみると)らしい。その後数年して、小児アレルギー研究会(のちの日本小児アレルギー学会)でよく会うようになり、「ああ、あの東大赤門のときの…」となり、以後、公私にわたり親交が続いた。喘息児における運動、運動誘発喘息のメカニズム、水泳療法、経口抗アレルギー薬の喘息発症予防効果など一緒に企画して研究した。
「東の飯倉、西の西間」と小児アレルギーにおける若手の遺り手として、持て囃された一時期を迎えたのであるが、実によく遊びもした。なぜか、写真を整理したら、国際アレルギー学会のイスラエルで二人で「銀座の恋の物語」をスカーフを被ってデュエットしていたのや、北京で東大の小林登先生、京大の三河先生達と麻雀をしているのや、千葉大の冨岡先生と芸者の横でニヤけている写真とか、ゾロゾロ出てくる。彼は仕事もそうであるが、遊びでも実にまめ。その積極性は私の遠く及ぶところではない。国内であろうと国外であろうと同じ。おかげで、随分余禄に与った。当然のこととして人脈の広さも抜群で、私がどちらかというと敬遠した行政関係も深く入っていた。診療科の壁もものともしなかった。元来、小児科医は優しくて、反発的態度はとらず遠慮がちである(と思う、思われる)が、彼はガンガン言い過ぎな位言った。そのために多くの敵も作ったと思われるが、私達の代弁者でもあった。とにかく、八面六臂、東奔西走の毎日であったから、病気の発見や処置が遅れたことは想像に難くない。
私達の関係は6年前の日本小児アレルギー学会の役員選挙を境に疎遠になったが、いつも気になる存在であった。お互い、自分の研究班ではそれぞれの部下がいて情報は入っていたが、今から思えば早く手打ちをしておけばよかったと後悔している。
とにもかくにも、私とプライベートには密着し、オフィシャルには喧嘩ばかりしていた飯倉先生は、私のアレルギーの臨床・研究・教育に大きな部分を占めていたことを亡くなられた今、つくづくと感じる。
あの世では多分、仕事はしないだろうから同じ頃に死んで、徹底して二人で周りを一杯巻き込んで遊び惚けたかったものだ。
心より飯倉先生の御冥福を祈ります。